お父さん、娘をやめていいですか?
父の娘であることをやめて、1年半経つ。
それ以来、どんな父からの連絡も無視している。
葬式を出すのは長女である自分の責任だから当然行うつもりだが、死に目に会うつもりは別にない。
そして、父の娘であることをやめて、いま、本当にラクだ。
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きっかけは、些細なことだった。
父の誕生会において、「なぜ毎年自分の誕生日に予定を空けておかないのか」と突然に責められた。
父と会うのは、年に数回。
父の誕生月、父の日のある6月、墓参りに都合がつく日。
私自身も忙しく、ましてや妹は接客業のため、シフト優先だ。
特に独身の妹は、家族持ちの社員やアルバイトにシフト希望を譲っている。
父の誕生日その日に誕生祝いをするのは困難だ。
そして、父の誕生日を優先して生きるほど、父親への愛情も敬意もない。
これっぽちも。
そんな主張をされる覚えもない。
私はずっと、父に対して我慢していた。
そして子どもの頃からずっと、父の、真実味のない人間性が嫌いだった。
25年前、父に7年来の愛人がいることが発覚した。
相手は職場の事務員。
発覚の発端は、父が勤める会社の従業員からの密告電話だった。
「奥さんが可哀そうで・・」
違う。
たんに、父親とその事務員が嫌われていただけだろう。
密告電話の直後、母は父の大事にしている温室のガラス壁を折りたたみ椅子で叩き割った。
その音で目が覚めた。
それから1年の別居後、離婚に至る。
私も妹も、父の籍に残りながら、母と3人で暮らした。
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専業主婦だった母の憔悴はひどいものだった。
一度は「出ていけ」と父を追い出したものの、これからの生活に不安しかなく、けっきょく父を求めた。
「このままでは気がおかしくなりそうだから帰ってきて」
その母に、父は言い放った。
「お前がおかしいなら、なおさら帰らない」
私も妹も、うつ経験のある母の再発を恐れ、とてもとても慎重に母を扱った。
毎日朝から晩まで同じ恨み言しか言わない母。
毎日朝から晩まで同じ不安しか言わない母。
いかに父親がひどい男か、過去に暴力をふるったときの執拗さ、堕胎したばかりの母の腹を蹴った日のこと、何度も何度も言い続ける母。
まだ二十歳になったかなっていないかの私たちのほうが、気が狂いそうだった。
心の底では、母親に「母親らしい」像を求めていた。
テレビドラマで見る母親は、どんなにひどい父親でも、それを娘に伝えない強いやさしさがあった。
けれど母は「いかに自分が可哀そうか」自分の発信しかしない。
母親が鬼の形相で語るこれまで父から受けた仕打ちを聞き続け、私は父の娘であることが怖かったし、その血が自分に流れていることに絶望した。
それでも、母親がうつにならないように、じっと耐えた。
そして父は言った。
「お前がおかしいなら、なおさら帰らない」
父に見捨てられたと思った。
母親を押し付けられた、と。
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離婚後、数年は父親と会わなかった。
許せなかったのもあるが、父の話が出ると母親が精神不安定になるからだ。
それでも会うようになったのは、20代の半ば、結婚を意識した男性に「父親との和解」を勧められたからだ。
それからは年に数回は、会うようになる。
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「困ったことがあれば何でも言えよ、父親なんだから」
と、誇らしげに言い続ける父。
私は嫌いな人間に甘えたりしない。
けれどそれでも、二度目の失業で預金が底をついたとき、父に頭を下げた。
「生活が苦しいので少し援助してほしい」と。
その私のために、父は分厚い封筒を持ってきた。
その日、父は私に自慢した。
「今朝、30万円する春蘭の球根を買ったんだよ」
「こないだ1匹10万円するらんちゅうを5匹買ったのに、4匹も野良猫に食べられてしまってね」
納得がいった。
そうか、父はお金持ちなのだ。
だからこんなに分厚いお金を用意してくれたのだ。
そこまでしてもらうつもりはなかったが、正直嬉しかった。
父と別れて封筒の中身を確認した。
現金3万円と、1000円の商品券が20枚入っていた。
初めて自分に頭を下げ、生活が苦しいと金の融通を頼んだ娘に。
その朝、球根に30万も払いながら。
商品券はおそらく貰い物だろう。
一度、父にたずねたことがある。
「私や妹より、金魚や蘭が可愛いんでしょ?」
父は迷いなく言った。
「お前たちはそばにいないけど、金魚はずっとそばにいるんだから仕方ない」
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父は・・。
こういう人が何人かいる。
事実を「きれいごと」に捻じ曲げてしまえる人。
つくりあげた「きれいごと」がいつのまにか事実になっている人。
父はそういうタイプの人間だった。
父が浮気に走った原因は母から聞かされた。
「自分がインポテンツになったとき、お前はなじるだけだった。
でも浮気相手の女性は、私が治してあげますよ、と、
優しく、それは優しく何度でも舐めてれた」
そう母は、父に言われたそうだ。
それを言う父のことも、それを娘に伝える母のことも、娘として悲しかった。
再び父と会うようになって、直接その言葉を父から聞いたことがある。
父のなじみの寿司屋のカウンター。
父の満悦そうな表情。
「お父さん、それは娘に言うことじゃないよ」
女将が軽くたしなめた。
父の満悦そうな顔は変わらない。
父の愛人は、離婚後にすい臓がんで亡くなった。
父は言う。
「すい臓がんで余命わずかな彼女を見捨てられなかったから、彼女を選んだんだよ」
それは違う。
父の愛人がすい臓がんになったのは、離婚後数年先のことだ。
でもたぶん父の中では、そういう美談に切り替わっているのだろう。
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私はずっと、家族というものにあこがれていた。
父親像、母親像があり、それに焦がれた。
だから、結婚したかった。
新しい家族を見たかった。
父親でないお父さん(自分の夫)
母親ではないお母さん(私)
私ではない子ども(私の子ども)
新しい家族で、違う「家族」をやりたかった。
結果、子どもはできず、アスペルガーの夫と、まるで家でも仕事をしているかのような、女上司と部下のような「家族」ができた。
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私はずっと、誰かの一番になりたかった。
とてもとてもわかりやすいカタチで、誰かに愛されたかった。